「今日は花見へ行くよ」
と、母が言った。
「今日行かんでいつ行くん?天気もええし、最高じゃと思うわ。花見の弁当を作るから由美ちゃん手伝《てつ》どうて。重箱を出して、布巾で拭いて用意して。」
台所から母が呼んでいるけれど、由美は本を読んでいて止《や》められない。あと1行、あと1ページとグズグズしていたら、父が大きな声で私を呼んだ。
「中学2年生の由美ちゃん、はよう来て手伝《てご》うせんか」
「はーい。聞こえとるわぁ」
「母さん、卵焼きも入れる?」
「ええよ。用意して」
「鶏肉の照り焼きも入れて」
「はい、はい。はよ、手伝《てつ》だいなさい」
由美は重箱を布巾で拭いて、お母さんの握ってくれたおにぎりに海苔を巻いて詰めた。ここは卵焼き、こっちは照り焼きと出来上がった料理を順に詰めていく。大葉で仕切りをつくり、桜の飾り切りをして炊いた赤い人参と南瓜も入れた。
「お母さん、まだもう少し入《い》れれるよ。大根炊《た》いたんないん」
しっかり詰まった重箱の風呂敷包みとお茶とお父さんのお酒の入った籠をお兄ちゃんが持ってみんなで神社へ出かけた。
「ここがええなぁ。桜が私の方を見よるわぁ」と由美がゴザを広げ、風呂敷包みから弁当を出した。
「由美のは自分の弁当箱へ入れたわ、この弁当箱が好きなんよ」
桜の花びらの模様の赤い漆塗りの弁当箱は、おばあちゃんにもらった大切な弁当箱で、いつもそれを使っている。
「お母さん、これが壊れたらどうしよう。
どこに売ってるんやろ。お母さん知っとる?
もう売っとらんかったらどうしよう」
と言いながら、家族そろって花見をし、弁当を食べた。
「由美ちゃん、ほんまにそれが気に入っとんね」
「桜の花びらがええんよ。父さん、弁当箱をいっぱい売っとる店へ連れて行ってぇよ」
「ちゃんとお母さんの手伝《てご》をして、言うことを聞かんと連れていけんなぁ」
「ちゃんとしょうるわ。たのしみじゃわぁ」
「博はどこか行きたいところはないんか」
「高校生になったらい忙しいじゃろうけん」
「おーそうか。まあ、やりたいことをやってみい。」
「うん。二年になったら進路も決めんといけんし、そのうち考えるわ」
「おーそうか。わかった」
「由美ちゃん、いちごもあるで、食べたらええよ」
父はお酒を飲んで上機嫌で、お兄ちゃんはおかずが美味しいと言ってたくさん食べたし、母さんはそれを見て嬉しそうだし、花見の客もそれぞれに賑やかに楽しんでいて、最高の花見日和だ。
父さんの知り合いがカメラで写真を撮ってくれたり、出店のおもちゃ屋やたこ焼き屋には、花見客が並んでいた。
「そろそろ帰るで」
「上まで上がってお参りしようやぁ」
軽くなった風呂敷包みを由美が持って、境内へと上がっていくと、兄ちゃんの友達の直樹君にばったり会った。
「博、花見しようたんか」
「おう」
「直樹君も一緒に弁当食べたらよかったねぇ」
「昼めし、食べてから、来たんで」
「そうか。じゃ、一緒にお参りしようか」
「はい」
直樹君も合流して、5人でお参りをして石段を下りた時、お父さんが持っていたゴザが無くなっているのに気づいた。
「ありゃ、どけー忘れたかのー、博、ちょっと見てきてくれーや。わりーのー」
兄ちゃんたちはぴょんぴょん石段を上がり、ビューンと取りに行ってくれた。
「父さん、ちょっと酔うとんじゃわ」
「ほんま、ほんま」
「そうかのー、母さん、博にちいと小遣いやってくれー」
神社の石段は、八十八段の米寿段、六十一段の還暦段、三十三段の厄除段、最後の七段の隋神段を上がる。全部で一八九段だ。行きと帰りで三七八段になる。花見のゴザを広げたのは米寿段の広場だった。
「ええ運動になるなー」
「食べてすぐは、きちいわー」
「おじさんなら酔うとるけん、大変じゃわぁ」
「ほんまじゃ」
「おーあった。あった」
「ほんまじゃ、えかった、えかった」
「博、最近、美佳と話をしたかぁ」
「いいや。どうしたんなー」
「急に勉強ばーしだした」
「どうしたんじゃろー」
「大学にでも行くんじゃろうか」
「博はどうするんなぁ」
「まだ、わからん」
「直樹は決めたんか」
「わしも、まだわからん」
「どっちにしても、勉強せんといけまーが」
「美佳もそう思うとるんじゃろう」
「今度、会《お》うたら聞いてみるわ」
花びらが風にはらはら舞うようになり、神社の石段に花びらが積もってきた。桜ももう終わりじゃなーと寂しい気持ちになった。
「由美ちゃん、今日はとんかつを作るから手伝うてぇ。先にきぬさやのすじを取ってここに入れて」
「はーい。ぎょうさんじゃなー。新聞紙広げるわ」
「これどうしたん、だれかにもろうたん?」
「今が旬じゃけん、みんながくれるんよ。今日のは準子さんにもろうたんよ」
「桂ちゃんちに、畑あるん?しらんかった」
「畑はないけど、もろうたのをくれたんじゃろ」
準子さんはお母さんの友達で、家族ぐるみの仲良しだ。
桂ちゃんはうちのお兄ちゃんと同じ年で、私と桂ちゃんの弟の隆も同じ年だ。
「卵とじにしようや」
「かまぼこも入れて」
「かまぼこは無いからちくわにしようや」
「おいしそうじゃなぁ」
季節は、春ののどけさからあっという間に、初夏のようになり半袖のブラウスがちょうどいい。商店街の中は、自転車は押してくださいと張り紙があるけれど、みんなスイスイ自転車を走らせていく。
「自転車は押さにゃーいけまーが」
時々、お店の人に注意されたり、通りがかりのおじさんに怒鳴られる。
商店街は駅に向かって続いていて、いつもそのあたりを探検している。寄り道をして路地へ入ってみたり迷子になってみたりする。
「こいのぼりがたくさん泳いでいたんよ。数えながら帰ってきたら15もあった」
「今頃の時季は たくさん泳いどるわな」
「大きなのもおったよ。立派なのが泳いどった。鶴形の通りにたくさん泳いどる。
夕方、おろしてしまようるのを見たわ。
屋根より高いこいのぼりを歌いながら帰ってきたわ」
「昔の詩は今と違うんよ。知っとる?母さんは昔のも好きじゃわ」
甍(いらか)の波と雲の波、
重なる波の中空(なかぞら)を、
橘(たちばな)かおる朝風に、
高く泳ぐや、鯉のぼり。
「しらんわ、聞いたことないわ」
「いらか言うんは、瓦のこと、瓦が並んだ屋根は波のようで、雲も波のようで、そこを鯉が泳いでいるようだっていう詩だったんよ。
神社の石段から見下ろすと、瓦がいっぱい並んでいて『いらかの波』のように見えるじゃろ。こいのぼりは今の時季だけじゃけど、瓦屋根の景色は、一年中好きじゃわ
天気がいい日は、キラキラ輝いて海を見てるような気分になるわ」
「そうじゃね。私も好きじゃわ」
「博が小さい時のこいのぼりは幼稚園に寄付したからもうないけど、今の時季なら幼稚園の園庭で見れるよ。今度一緒に行ってみような」
4月に入園した年小さんも、制服と黄色い帽子が良く似合い、先生を先頭に手をつないで歩く姿がかわいらしい。
午後の2時を過ぎるとお迎えが来たり、バスに乗ったりしてそれぞれ家に帰っていく。
「由美ちゃん、お母さん、お久しぶり、お変わりないですか」
「園長先生、ご無沙汰しています。今日は由美とこいのぼりを見せてもらいに寄りました」
「由美ちゃん、すっかりお姉さんになりましたね」
「由美は探検してくると言っては路地をウロウロしています」
「自転車で酒津の方まで行くこともあります」
「博君はどうしてますか?」
「お兄ちゃんは部活で弓道を始めました」
「お茶でも飲んでいきませんか」
「ありがとうございます。お邪魔ではないですか。先生とお会いするのも久しぶりなのでお言葉に甘えてもよろしいですか」
「どうぞ、おあがりください」
昔、幼稚園に鯉のぼりが無かったので探していると聞いて、お兄ちゃんのを寄付したのをご縁に園長先生と母は仲良しになり、母は園長先生をお姉さんのように慕い憧れている。
風鈴の音が聞こえるようになると軒先につるしたそれぞれの音が由美を路地へと向かわせる。
「桂ちゃんの家の風鈴は、音が綺麗で余韻があるんよ」
お母さんに冒険の成果を報告する。
「桂ちゃんのおばあちゃんが盛岡だから、たぶん南部鉄器の風鈴じゃないかな」
「高い音で 響きがきれいなんよ」
「涼しい音色じゃね」
「母さんはどんなのが好きなん?」
「吹きガラスの カランカランって音色が好きじゃわ。キラキラしてるのがいいわ」
「うちの風鈴は朝顔の絵が描いてあって、軽い音がする。風鈴探索に行ってまた報告するわ」
「一人でウロウロするのがすきじゃね」
真夏の日差しはチリチリして半袖ブラウスから除く腕を焦がしている。鶴形の公園に行くと小さい子供を連れたお母さんたちがにぎやかだ。石段を商店街に向けて下りると備前焼の店があり、脇道の路地へ入ると桂ちゃんの家への近道だ。このあたりの土地は地主の持ち物で、上の建物だけ住人のものだ。
二階建てが増築されたり、駐車場の上に部屋を付けたりいろいろな家が建っている。
桂ちゃんは、お兄ちゃんと同級生で活発だ。
赤ちゃんの時から家族ぐるみの付き合いで、ご飯を食べたり、旅行に行ったり仲良しだ。
お兄ちゃんが3歳のころ海水浴場で浮き輪につかまりプカプカしているビデオを見ると本当の4人兄弟のように見える。今でも集まるとビデオを見て大笑いすることがある。
ヒロシとタカシは名前も似ていて、どっちの名前を呼んでも二人とも返事をするというビデオは傑作でかわいい。
桂ちゃんと私はいつもお揃いで双子に間違われていた。少し大きい由美と少し小さい桂ちゃんは年が2つ違うけど体格が同じだった。
洋服は準子さんが同じ柄のワンピースを作ってくれ、うちのお母さんが髪につけるリボンを作り私たちにはお母さんが二人いるようだった。
「今夜は町内の寄り合いで父さんがいないから、ご飯を一緒に食べない?」
準子さんからお誘いの電話があった。
「いいね。何を作る? 私も何か持っていくわ」
とんとん拍子に食事会が決定し、何の料理にするか相談していた。
「じゃ、私はささみとエビをフライにするわ。
サラダ作って持ってきてくれたら助かるわ」
と準子さんが言ったので、母と私はポテトサラダを一緒に作りキャベツやレタス、トマトと盛り合わせ大きな寿司桶に入れて持って行った。
「由美ちゃん盛り付け上手ね」
と準子さんに褒められた。
「いつも色が綺麗ね」
と褒めてくれる。
野菜にはそれぞれに色や形があり、盛り付けが綺麗に決まると料理も美味しくなる。
美味しくできた料理をみんなで食べた。
「博くん、部活はどうなん?楽しい」
「弓道部に入ったんじゃけど、なかなか的に当たらん。本番は手がブルブルして難しいんじゃ」
「いつ試合があるんなら、応援に行くわ」
「止めてくれー、みんなが来たら余計に緊張するわ」
「わしらで、緊張しよったらどうすりゃ―」
ワイワイ言いながら、準子さんが剥いてくれた白桃を食べた。
真夏の天気が続き、夏休みの午後、由美は中央病院の近くを探検していた。
救急車が次々とけたたましいサイレンを鳴らしながら走ってくる。
「事故かなー。多いなー」
なんとも言えないぎゅっとつかまれたような苦しい胸騒ぎがした。
「そろそろ、帰ろう。今日は桂ちゃんたちがご飯食べに来る日だし、おやつでも作ってみよう」
家に帰り、プリンを作った。
お母さんは、どんどんおかずを仕上げていく。
手際が良くて見事だといつも感心する。
「桂ちゃん来《こ》んねぇ。どうしたんじゃろ。お母さん電話してみてぇ」
「そうじゃなー、遅いなぁ。なんかあったんじゃろうか」
電話の呼び出し音は何度も続き、誰も出なかった。
「折り返しかかってくるかもしれんから待っておこうやぁ」
お茶でも入れるわ。用意はできたけん、ちょっと待ってみよう。
「お母さん、ゾクゾクするわぁ。ちょっと見に行ってきて」
「そうじゃな―、ちょっと見に行ってくるから宿題しょうり、留守番しとってな」
母はそう言い、すぐに出て行った。
ゾクゾクするのが止まらないので、テレビをつけたらニュースの時間だった。いつもは気になる天気予報も全然聞こえてこなかった。
電話が鳴りビクリとした。
「もしもし、母さんじゃけど、由美ちゃん。
桂ちゃんが大変なんよ。救急車で病院へ運ばれたらしいんよ。テニスボールが顔に当たったらしいんよ。詳しいことは家に帰ってから話すね。隆くんを連れて家に帰るから待っとってね」
「うん、わかった。びっくりじゃわ。大丈夫かなぁ。 あ、お父さんが帰ってきたから言うとくわ」
電話をしながら、涙がボロボロ流れた。自分の顔にボールが飛んできた様だった。怖くて痛くて真っ白だった。父さんが「なんで泣きょんなー」と声をかけてくれたけど返事ができなかった。
そのうち、お母さんが帰ってきて、事情を説明してくれた。
「隆くんもびっくりしとるし、由美も泣いとるし、桂ちゃん心配じゃな―」
「顔のどこに当たったんかのー」
「目じゃなければええけどのー」
「ご飯の支度はできとるけん、先に食べようや。今日はもともと一緒に食べる予定じゃったんじゃから、そのうち帰ってくるじゃろう。手を洗っておいで」
あげと小松菜とワカメの味噌汁と鶏肉の照り焼きをキャベツやトマトと盛り付けて食卓に並べた。冷ややっこも切った。
博も帰ってきて5人で食べた。いつものようにお代わりもしておいしく食べた。母さんの料理はこんな気分の時でも本当においしかった。
味噌汁をふーふーしたとき、桂ちゃんの顔が浮かんだ。
「桂ちゃん、はよう、帰っておいで、ご飯食べようや」
その時、電話が鳴った。
「急なことでびっくりさせてごめんねぇ。桂子は手術になって今終わったんよ。
ボールが左目を直撃していて、当たり所が悪かったんよ。しばらく入院になるんよ。
これから隆を迎えに行くわ」
「ほんまかな、大変じゃったなぁ。ご飯できてるから食べてってな」
「ありがとう、楽しい食事会のはずがこんなことになってしもうて、ごめんねぇ」
「ま、とりあえず、うちに来てご飯食べて」
うちのお母さんもおばちゃんもほんまに優しくて友達はええな―と本当に思う。
ご飯を食べて、隆を見送ったら、我が家はキーンと静まり返り桂ちゃんの無事を祈った。
「目が開いたら何も見えんかったりせんのんかなー。ちゃんと見えるんじゃろうか」
「お風呂に入って、もう寝なさい。心配いらんから」
長い夜がいつの間にか朝になった。寝つきが悪く眠れなかった。目の奥がガンガンしていた。
「母さん、桂ちゃん退院したかなー」
「どうじゃろね」
「電話して聞いてみてぇ」
「そうじゃなぁ、聞いてみようか」
お昼の3時ごろ、お母さんが準子さんの家に電話した。
「明日、桂子が退院するんよ、まだ少し元気がない様子だけど、落ち着いたら見舞いに来てね」
「退院できるん、よかったねぇ。由美が心配して何度も何度も電話して聞いてくれと言うから困ったんよ。ほんま、良かったね」
そばで聞いていた私は、退院できると聞いただけで目に涙が溜まりこぼれそうになった。
桂ちゃんに会えると思うと安心した。
「お母さん、桂ちゃんは眼帯しとんのかなぁ。元気かなー。本とか読めるんかなー」
「どうじゃろうね。落ち着いたら見舞いに来てゆうとるから、様子を見てまた聞いてみようね。由美ちゃんは宿題をせんといけまー。夏休みが終わるで」
そうだった、夏休みが終わってしまう。
「お母さん、桂ちゃんにもういいか聞いてぇ、お見舞いに行きたいんよ」
「連絡がないんじゃけん、そう、やいやい言わんで待っときなさい」
結局、あと1週間という頃になっても、桂ちゃんからも準子さんからも連絡は無かった。
ちょうど夏休みだし、探検に出かけた。南部鉄器のチリンチリンの風鈴の音は変わらず聞こえていた。
「桂ちゃん」
外から呼んでみた。
窓ガラスが開いて、眼帯をした桂ちゃんがのぞいて消えた。
待っていたけど、誰も出てこなかったし、声もしなかった。
寂しい気持ちを抑えながら家に帰った。
夕方、桂ちゃんから電話があった。
「由美ちゃん、顔が腫れてて、目もおかしくて、まだ会いたくないんよ。ごめんね」
「桂ちゃん、いつでも行くから電話してね。飛んでいくから」
そう答えたが、目に涙が溜まって表面張力を起こしていた。電話を切ったら、涙が流れて溢れた。
桂ちゃんったら、早く会いたいのに、桂ちゃんはどんな時でも桂ちゃんなのに。
それから4日後に待ち焦がれた電話がかかってきた。
「由美ちゃん、遊びに来て」
「すぐ行く!」
桂ちゃんの声がニコニコしているように聞こえた。お母さんに桂ちゃんちへ行ってくると言ったら「ピオーネ」持っていきなさいと出してくれた。
「桂ちゃん、どうしてたん、わたし、なんもできんでごめんな」
「由美ちゃん、目のまわり真っ青になってしもうたんよ。だいぶ薄くなったけどどうかなー」
「だんだん良くなるよ。目は見えるん?ぼやんとするん?白いん?黒いん?」
「顔が真っ青で、ものすごくはれて、もう元に戻らんかと思うたんよ。誰にも会いたくないし、怖かったんよ。怖くて怖くて泣いとったんよ。左目は、ぼやーんと白くて何も見えないんよ。でも右目はちゃんと見えとるけん大丈夫よ」
「良かったー。ピオーネ持ってきたよ。今が一番おいしいよと母さんが言うとった。洗ってもらってくるね」
「おばちゃん、ピオーネ持ってきたから一緒にたべようや」
「まあ、ありがとう。おいしそうじゃねぇ。
洗って持っていくね。由美ちゃん、心配かけてごめんね。ちょっと元気になったから安心してるんよ。テニスはもうできないけど何か別のこと始めると思うからよろしくね」
「テニス、できないの?」
「できないのよ。バランスが難しいらしいのよ」
「そうなんだ、わかった」
おばちゃんはテニスはできないというけれど、試合に出るのは無理ということなんだろうな。またできるときが来ると思うな。隆と博も誘って四人でできるし、ゴーグルかけて四人でやろうやといつか言ってみる。今は無理かもしれないけれど、読みかけの本に「しおり」を挟むように、続きはここから始めると決めておくわ。五年か十年先かは、わからないけどまた思い出したときに「しおり」を開いて続きを始めればいいや。
大切にしまっておくわ。
「桂ちゃん、ピオーネ食べよーや」
忙しく日々は過ぎていき、仲良く年を重ねていた。由美は大学生になり、交換留学生を受け入れる制度を利用しこの冬休みにオーストラリアに三週間の短期留学に行くことが決まった。帰国の翌日が成人式というハードスケジュールの予定となった。
「桂ちゃん今のうちに、振袖を選びに行くけんついてきて」
「私のを着たらいいが」
「え、いいん?」
「いいよ。柄が嫌ならいけんけど」
「桂ちゃんの赤い振袖良かったよ。貸してもろうてもええん?おばちゃんに聞いてみて。同じで写真も撮って記念になるわ。うれしいわー。私もお母さんに聞いてみる」
早いもので、由美は二〇歳の大学生になっていた。大学は神戸で、学校の先生になろうと思っていた。
事故で左目の視力をなくした桂ちゃんは岡山の大学へ入り、卒業し学校の先生になろうとしていた。
由美が先生になろうと思ったのも桂ちゃんの影響で、同じ道に進もうと思ったからだ。相変わらず姉妹のように仲良くしていた。
初めての海外旅行で何もわからぬまま、出発予定の日が来た。
飛行機も初めてだし、何もかもが新鮮だった。三週間の留学は長いと思っていたが、毎日が充実していて、あっという間にお別れの日になった。同じ年のステファニーは背が高くモデルさんのようだったし、パパとママもとてもやさしかった。おばあちゃんは少しだけ日本語を知っていて、日本語で話してくれた。夏のクリスマスと新年は不思議で仕方なかったが楽しく過ごした冬休みだった。
ホストファミリーとたくさんの思い出をつくりお土産を買い機上の人となった。
明日は、成人式だ。
人生における充実感あふれる日を尋ねられたら「オーストラリアでの留学」と答えるだろう。冒険好きの私にぴったりだ。
英語で暮らすということ、親や兄弟と離れて、神戸に住んで二年、幼いころから暮し冒険してきた倉敷の町、いつも一緒の桂ちゃんファミリー、そして新しく増えたオーストラリアのホストファミリー、私の周りにたくさんの宝物が増えていく。
読みかけの「しおり」を挟んだ大事な想いを時々思い出しながら前向きでいようと思う。
「隆、行くよ、おじさん待っているよ。道が混むからそろそろ出るよ」
成人式の朝はあわただしい、晴れ着に着替えて会場まで一緒に出掛けた。
「隆、京都はどう?」
「人が多くて気持ち悪《わ》りい」
「そうよね、やっぱり地元がええね。たぶん
岡山弁がええんよ。時々ちゃんと標準語で話すけど、言葉に詰まってうまく出てこないときがあるわ」
「ねえ、桂ちゃんの目はもう治らんのかな。他の方法で見えるようになったりせんの?
隆が早うお医者さんになって直してあげてよ」
「再生医療で良くなるんじゃないかという話もある」
「時代は進歩して、今までなかったものや、できなかったことが解決できるようになるんじゃないかと思うんよ。桂ちゃんの目が良くなって四人でテニスをするのが私の夢なんよ。
約束よ。私の夢を叶えてよ」
「おう、わかった」
大学には学食があるが、由美は弁当を作って持っていく。
赤い漆の弁当箱をいつか買いに行こうと思っている。どこでどんな風に作られているのかを桂ちゃんと一緒に見学に行って買ってこようと思っている。
「桂ちゃん、今度旅行に行こうよ。弁当箱を買いに行きたいんよ。私が使っている弁当箱がどのように作られているのかを見たいし、新しいのも買いたいのよ」
「いいよ。今はカニもおいしいんじゃないかな?どこへ行くか決めてるの?」
「行くのは徳島なんよ。工房の見学もお願いしたいし、温泉旅館に泊まったらどうかと思うんよ」
「フェリーで行こう。楽しみじゃわ」
「いつがいいかな、春休みに行こう。花見の前に買えばすぐに使えるし、うれしいわ」
「二月二十日はどう、予約しておいてね」
「試験も終わってるし、ちょうどいいね」
伝統的な和柄の弁当箱は、漆器《しっき》と呼ばれ、木や紙などに漆を塗り重ねて作ります。
有名なところは、山中、越前、会津、紀州と言われますが、国内にたくさんの産地があります。徳島の漆器は少数です。漆の生産も国内のものはわずかでほとんどが中国産の漆となります。
漆芸《しつげい》作家も漆《うるし》かきも職業にする人は少なく伝統を守る必要があります。
説明を聞きながら、職人さんの手仕事を見せてもらい、実際の作品を見学させてもらうと素晴らしい伝統工芸品だと感心する。日常使いの弁当箱であってもこれだけの立派な仕事をするのは大変なことだと容易にわかる。
私より桂ちゃんの方がたくさん質問して、いろいろ考えていた様子を見て、私はなんてお粗末なんだろう。外見の美しさだけにとらわれて柄が綺麗だとか丈夫だから好きだとか、とても安直な感じがして、ショックだった。
桂ちゃんも気に入った弁当箱を見つけ購入した。
工房で説明してくれた職人さんが外まで見送りに来てくれた。同じ年頃の若い男性だった。指を真っ黒にして何度も何度も漆を塗っているんだろう。地道な作業や絵付けを想像し、大切に使おうと思った。
「あ、忘れ物をしたわ、ちょっと待っててね」
お店を出て、桂ちゃんが小走りに店内へ戻っていった。
数分後、車に帰って来たときは、耳まで真っ赤にして、はあはあ言っていた。
「由美ちゃん、連れてきてくれてありがとう。漆、綺麗だったね。いい弁当箱が買えたね」
「桂ちゃんも買うとは思わんかったわ、えかったん」
「ひとめぼれ、じゃわぁ」
桂ちゃんは真っ赤な顔してそう言って笑った。
「旅館は露天風呂があるんよ、楽しみじゃわ」
「そろそろ、行ってみようやぁ」
買い物も楽しかったし、説明もわかりやすくて二人で来れてよかったし、素敵な弁当箱が買えて大満足だった。
「由美ちゃん、河津桜が咲いたからお弁当を持って花見にいこうや」
と桂ちゃんから電話があり、花見が決まった。
「明日の十一時ごろに迎えに行くわ、歩いて行こうやぁ」
「倉敷川沿いにたくさん咲いとるけん、遊歩道を歩いたらええね」
桂ちゃんに花見に誘われたことをお母さんに言い、おかずは何にしようかと聞いてみた。
「明日、花見の弁当を持って倉敷川沿いを広場まで歩いていくんよ。何のおかずがかええかなぁ」
「ちらし寿司やいなり寿司もええね。あげがあるから炊いたらええよ」
「ゴボウやレンコンもあるかなぁ」
「一緒に買い物に行ってもええよ。いちごも買うてあげるわ。春休みじゃし、サービスしとくわ」
籠に一杯、春らしい弁当のおかずを用意した。
「桂ちゃんはなんのおかずにするじゃろうな?」
「そうじゃなー、唐揚げとエビの炊いたんと卵焼きとおにぎりかな。エンドウ豆とか入っとるかもな」
母さんが予想したおかずだと面白いなと思いながら、私は何にしようかと考えながら帰った。
あれこれ考えたけど、結局はいなり寿司とエビフライと鰆の焼いたんと卵焼きときんぴらを作った。母さんが肉じゃがを作ってくれたのでおまけに入れた。
新しい弁当箱に上手に詰めておいしそうな弁当が出来上がった。詰めるのも楽しくてわくわくした。もう少しゴボウを長く切っても良かったかな、切り方も大切になる。素材は煮たり焼いたりするとサイズが多少変わる。弁当の幅や高さにそろえておくとおさまりがいいし綺麗でおいしそうだ。最終のイメージが最初にできると、とても楽しい。
桂ちゃんももうできたかな?と時計を見たらちょうど約束の時間だった。
「由美ちゃん、できたかな、行くよ」
「はーい。弁当とお茶はリュックに詰めて手ぶらにしていこうや」
「ここを歩いて行くんは、久しぶりじゃな」
「どのくらい振りか、わからんなぁ」
「河津桜がピンクで綺麗じゃねぇ」
「つぼみはピンクの濃さが濃いねぇ」
「水仙も咲いとるなぁ」
「菜の花もあるねぇ」
「赤白黄色じゃね」
遊歩道は大きな道路の下で高架下をくぐる地下通路につながっている。
「そろそろ三分の一くらいじゃね」
「今日は空が真っ青で綺麗じゃねぇ」
「お弁当のおかずあてクイズしようやぁ」
「由美からいくよ、桂ちゃんのおかず唐揚げ」
「ブー残念。はずれ。由美ちゃんのおかずエビフライ」
「当たり。大正解。なんで分かったん?」
「迎えに行ったとき、ええ匂がしようった」
「桂ちゃんのおかず ハンバーグ」
「当たり。正解。なんでわかったん?」
「おばちゃんが桂子はハンバークが好きなんよって言うとった」
「由美ちゃんのおかず、きんぴら」
「当たり、なんでー。桂ちゃんのおかずポテトサラダ」
「当たり、なんでわかるん?」
「どんなん作ったんか着いたら見せあいこして、味見さしてもらうわ」
「そうじゃね。もうすぐ着くわ」
今日は本当に花見日和だ。人が思ったよりたくさんいて、ゴザを広げて弁当を食べていた。
「だれか知り合いおるかな」
「桂ちゃん、あの辺にする、それともこっちがいいかな」
「ここにしよ。のどが渇いたね。お茶飲もうや。わたし冷たいの持ってきた。ほうじ茶だよ。どうぞ」
「ありがとう、私のは熱いお茶だから先に冷たいのもらうわ」
「お弁当、どんなん作ったん、見せて」
「母さんに習って、おあげさん炊いて、いなり寿司作ってみたんよ。中にレンコンとゴボウを刻んで入れたんよ」
「由美ちゃんは、盛り付けも上手じゃねぇ。綺麗に並んどるし、おいしそうじゃわ。この新しい弁当箱もええねえ」
「お母さんが料理を作って教えてくれるけん、知らん間に自分でも上手に出来るようになったんよ。今は一人暮らしじゃし、この前オーストラリアに行った時も日本の料理作ってみんなで食べたんよ。材料はスーパーになんでも売ってるんよ」
「今日は私も自分でおかずを作ったけど、普段はほとんど何にもしないから手伝わんといけんね。それにしても、おなか一杯じゃなー。おいしかったなぁ」
「あ、いちごもあるんよ。大サービスで買《こ》うてもらったんよ」
「ほんま、おいしそうじゃな。由美ちゃん、うち、相談があるんよ」
「なに?」
「この弁当箱を買いに行った日のこと覚えてる?説明してくれた職人さん素敵な人じゃった。あの時、お店に戻って名前を聞きに行ったんよ。そしたらその人が名刺くれたんよ。これじゃけど、『山下雄次』って名前なんだわ。ええ名前よな。電話してみようかと思うんよ。由美ちゃんどう思う?手紙と電話とどっちがええじゃろうか」
「ん、ひとめぼれって、弁当箱じゃなかったん?職人さんの方だったん?びっくりしたわぁ。そういわれてみれば、優しそうな人じゃったね。いっぱい質問しょうったなぁ。桂ちゃんがそんな風に思うとるとは知らなんだわぁ。私なら、手紙にするかなぁ。返事をもろうたらうれしいし」
「ほんま、思い切って手紙書いてみるわ」
「なんて書いたか教えてえよ」
「自分でもよくわからんのじゃけど、気になって仕方ないんよ。仕事も一生懸命じゃったし伝統を守ってる姿がカッコよかったんよ。他の男の人には感じたことのない男らしさがあったんよ。お母さんには内緒にしてよ。由美ちゃんには報告するから、約束よ」
「わかっとる。内緒じゃわ」
花見日和の三月の終わり、桂ちゃんが大人になった気がした。手紙読んだら返事くれる人だといいなぁと職人さんを思い出していた。
桂ちゃんの思いが通じたら、漆の絵付けとかするのかな?ちょっとまだ気が早いかな。誰かが作り続けてくれないと壊れたらもうないということになってしまう。
私のおばあちゃんの弁当箱、桂ちゃんちの風鈴の音色、風情が宝物になる。人との出会いも同じだ。
母さんの美味しい料理、桂ちゃんのママの洋服、園長先生のやさしい見守り、ホストファミリーと過ごした貴重な時間、すべて再生されていく。私を取り巻くすべての事象には、必然の理由があり無駄なものなど一つもなく、事象に囲まれて豊かに生きている。なくしたものや、沈んだ気持ちも癒されて暖かい光にきっと包まれる。
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